現地に着くことが出来た

しかも、隣はガタイのデッカい旦那さんだったので、圧迫感を感じたが、観ているうちに隣の存在は忘れ、没頭した。
素晴らしかった。
特にビートの効いた歌とダンスは、直接、目から心臓に響く兩文三語幼稚園。
さすがに歌が、上手い。
ダンスは、血が騒ぐ。
(書けば書くほど、稚拙で平凡な表現になっていく、、、、)
ちなみに、大都会、梅田。
超久しぶり。
土曜日の夜ということもあり、すごい人。
わしゃわしゃと、どこから降って湧いて出て来るのか、若者いっぱい。
ではあるが、梅田芸術劇場に集まる人は、そんなに若い人ばかりということはなかった。
落ち着いた年齢層の人々もいて、すこし安心した。
梅田は庭のうちの一つではあったのに、もう遠い昔のよう。
田舎ネズミで、強烈な方向音痴、そこにグレー・プレ認知症のわたしは、ちゃんと会場に行けるかしらと不安になった電機工程。
自信がなかった。
だが、身体で感覚を覚えていたようで(子供の頃、乗れた自転車には、ブランクがあっても乗れるのと同じ)、全くロスなく一歩も間違えることなく現地に着くことが出来た。
待ち合わせの時間まで30分近くあり、人間ウォッチングをして待っていた。
ある面識のない女性二人に、いきなり、スマホで二人の写真撮影をお願いされた。
しかも、すみません〜、とかではなく、不躾に、ツアーの添乗員に頼むかのように当然な感じで頼まれた。
人にものを頼む態度ではなかった。
二人とも洗練された格好をした熟年なのに、礼儀がなってない。
単にスマホ撮影など、誰でも簡単に出来るが、わたしは自分のスマホを片手に持っていたし、バッグも抱えていたので、けっこう、モタモタした。
しかも、シャカシャカ敏速に行動するタイプではないので、自分なりには、負担だった。
何枚かシャッターを切ったが、その画面を確認した二人は「まあいいんじゃない?」と、たいして礼も言わず、目の前からいなくなった。
引き続き、待ち合わせ場所である会場建物(梅田芸術劇場)の玄関前で待っていると、また二人はお互いに写真を撮っていた。
田舎ネズミのわたしは、都会では、立派な良い歳をした熟年になっても礼儀知らずな人はいるものなんだなあ、、、と思った。
座席場所はわかるかしらと、じつは、ドキドキしていた。
というのは、わたしは飛行機では何回か座席番号を間違えて座っている黒い経歴がある。
前と後ろの座席を勘違いするのだろう。
なので、人一倍、ナーバス、慎重、そして自信がなかった。
なにしろ、グレー・プレ認知症になってからはほとんど新しい場所には切り込んで行っていなかったので、感覚がどんよりしていた。
最近は、広々した自然に接することで、身も心も解放されていたついでに、脳みそも緩んでいたのではないかと危惧していた。
でも、まだ、大丈夫みたいなので、とりあえず、安心した。
だが、またいつ、ポカミスをするか推測できない。
有名人の名前がアタマに浮かんで出てこない不安に特に今、駆られているmyob 教學。
が、皆さんたぶん、通る道。
グレーのまま、ずっと行く可能性だってあるわけで。

Posted by jonesso at
11:28
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自分事として捉えていな

人口の多い国はこれから栄華の時代を迎える。
昔は貧乏人の子だくさんというイメージがあった。
産めよ増やせよの時代を過ぎて、やがて理想とする子育ては教育にお金がかかるStudy in China。
質を追求して子供の数を減らす。
自分の生活や人生の質や充実を重視して、子供を産まない、結婚もしない。
少子化の波に歯止めがかからない。
価値観の変移か。
しかし夫婦で協力して子育てしている姿をよく見かける。
女性が普通に家庭外で働くようになって、家事、育児の協働が目立ってきた。
介護について。
老老介護もさることながら、わたしが知る範囲では、リタイア前後の男性が母親の介護を担うケースが増えてきている澳洲買樓。
嫁ではなく、息子。
時代は変わった。
だが、まだ旧態然とした価値観は人によっては変化せずにそのまま。
特に前期・後期高齢者あたりの、昭和男性は、アタマの中が変わっていない。
今更、変えようにも無理。
周りは諦めている。
が、少し突くと、火薬庫の爆発が起きる。
啓蒙啓発は無駄なので、あたり触らず、そっとしておくしかない。
いくら目の前で若い婿が家事・育児をしていても、自分には直接関係がなく、映画を観ているようなもので、自分事として捉えていない。
その状況が許されているわけではなく、アタマのカタイ人は、居ないもの、存在しないものとして扱われている。
特別な地位、特権を与えられているわけではない。
治外法権の例外区。
経済発展区なら良いが、限界集落のようなもの。
再生などには手付かずで、やがて朽ち果てるのは時間の問題。
ちなみに、我が家があるのは、半世紀前に大規模開発された地。
我が家の近所周り、土地家屋の新旧移り変わりが著しい。
開発、分譲当初、安い値段で買って入居した人々は90歳近くなっている。
家を手放し、駅近くのコンパクトなマンションに引っ越しているか、老人ホームに入っているだろう。
綺麗に区画され整列していた各邸は、歯抜けのように、どんどん古い家が更地になっていく。
そして、新しい家が建つ。
ちょっと家の周りを散歩すると、あちこちに動きが見られる。
1番の動きは、わたしが寝ている2階の部屋から見える風景が変わったこと。
今まで何もなかったのに、窓から全面にドーンと大きな家が立ちはだかり、こちらの2階と目線の位置が同じになった。
うちの1階からは見えないのだが、2階から見ると存在感を現している。
なぜ、1階からは見えないのに2階から見えるのか。
というか、2階からしか見えない。
うちの玄関の反対側(背後)の家の、更に道を隔てたお向かいの家。
何十年も手付かずの空き地だった。
裏側の筋を一つ進んで足を運ばなければ、家が建っているのが1階からではわからない。
そして、うちの2階から見えるのは、大きな家の横側。横姿。
道路側の間口より奥行きが広く建っている。
道路側の横から見ると幅が狭いが、直方体の大きな家。
大きな家が建ったと思っていたら、それは横側から見た姿で、実際はもっと大きかった脫毛學生優惠。
(書いても書いても、うまく表現、描写できない。
図面か、写真なら一発でわかるのだけど。
なぜか、この家の形状、形態を表現したい)

Posted by jonesso at
16:22
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瞬時に子供の頃に時を戻

切る、というよりは、もっと優しい。
そよそよ、だけど爽やか。
その風を皮膚に心地良く感じる度に、子供の頃の光景が蘇る。
夏には家の中の風通しが良いように、祖母か母によって、夏用の建具に取り替えられている。
透ける生地、ブルーの波を形取った、涼しげなのれんが、風が吹く度に細長に揺れる手臂粒粒。
玄関周りに、打ち水がされている。
風鈴チリンチリンは、あまり記憶にはないが。
夏の風を受けると、田舎の家での、あの気持ちいい風が、瞬時に子供の頃に時を戻す。
ベルを鳴らすとヨダレを垂らすパブロフのワンチャンのごとく。
条件反射的、反応か。
その部屋は、冬には掘り炬燵。
テレビが置いてある。
高い天井には明かり取りの窓。
そこでわたしは、テレビを祖母と観ていた。
兄、姉、両親の姿はテレビを観ていたわたしの思い出の中にはない古法紮肚。
わたしが幼すぎて、当時の印象が薄くて記憶にないのか。
現在もその部屋は同じ位置にテレビが置いてあるが、部屋の役割としては、隣の部屋に行くための通過across部屋のようになっている。
昔の田舎の家は、「田」の字のように和室が四つ並んでいた。
そのうちの一つの部屋は後に洋室に改装されたが、建具はそのまま。
和室にも洋室にもマッチする、重厚な木の引き戸はそのまま使われている。
昔の田舎の実家の光景を思い出すと幸せな気分になるところから推測すると、わたしはどうも、実家愛が、強い、、、。
四季折々に身体いっぱいに季節を感じていた。
頭脳ではなく、精神でもなく、受けるのは体感。
「過去は消せない」とよく耳にする。
確かに。実感する。
隅々まで染み込んでいる。
過去は、自分の体の一部になっている。
過去の栄光や成功体験が染み付いている人もいるだろう。
過去の不幸な体験からまだ抜け出せない人もいるだろう。
過去と今を比べるのではなく、過去は今に至るまで切れずに続いているもの。
過去を消したい人もいるだろうけれど、わたしの場合は消したら何も残らない。
今、幸せなら、過去はなんだってよい。
未来は今から始まる。
だが、今まで続いた幸せに固執すると、囚われの身となる袪斑。
出来れば幸せを継続したいけれど、ままならぬこともある。
毎日毎日、平凡に平穏無事に完結するのが明日への幸せにつながる。

Posted by jonesso at
09:47
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くないと思うのはマチ

それぞれ個人的に考えや好みある。
おおざっぱに、大きく括って、ざくっと共通点があれば、それでよい。
人には人の考えや好みがあるのに、自分と違うから、自分を認めてもらえないからと、嘆き、面白くないと思うのはマチガイthermage 邊間好。
なんと押し付けがましいことか。
共通項に導かれて自然に集まってくるのなら、まだしも。
好みや考えが違う人とあえて、一緒にいる必要はない。
だが、自分が寄って行ったり、他の人が好みのものに集まって行くと、同好の緩い輪ができる。
緩い輪には強制力がないから、自然に離散してしまうこともある。
それでもいい。
自分が求めているものがそこにある、自分の居場所だと感じる、そんなところを少しずつフォーカスしていく。
ゆったりした、ゆっくりした、ゆるい輪。
一人でもいい。
今日は、輪にはならないね、というかんじでもMedilase 脫毛。
ずっと輪にならないね、でもいい。
全員おひとり様という輪もある。
吸収合併せず消滅せず、存在、独立。
自分一人だけでは絶対に気づかない、行けない、見つけられないことも、他人さんが見つけているのを見て、その存在を知る。
こんなものもあったのか。
悪くない。
気づきを得る。発見。
自分の枠を広げたり取捨選択したりして修正する。
その作業は楽しい。
わたしの感じる「ひとり」には、孤独の匂いや陰は付きまとわない。
「孤独」という言葉には、悲壮で悲惨で不幸な響きを感じるから、あまり好きではない。
人は元々ひとりなんだから。
何を今更。
例え大勢でいても。
わたしを理解して!わかって!なんて思うことは、あつくるしい。
ただしこれは、命を守るレベルの話をしていない。
命の存続にかかわるようなシリアスな局面を迎えていない、余裕のあるお一人さまである去暗瘡印。
余裕を得るには自分を追い込んではいけない。
妥協もしないと、生きていけない。
食べなければ生きていけない。
時として、マズイものでも。

Posted by jonesso at
10:56
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る時刻が遅くなるだ

「おかあさん(わたし)は、自分自身の力で稼げるお金と、自由にできるお金に差がある」と。
「世の中にはいろんな集団があり、その集団内でどうこう言っても始まらない」と香港皮秒。
ハッとした、、、わけではない。
ホッとした。
なぜなら、、、あらまあ、わかってるじゃないか、この子。
40歳を目前にして、もう大人、真っ最中。
わたしは、ダラダラベラベラどうでもよいことは話すが、あまり真髄的なことは言わない。
つまり本質は語らない。
自分の胸の中にしまっているということだ。
というつもりだったが、実はダダ漏れだったかも知れない。
本音を喋りまくっていたのだろう。
実は(、、、またまたこういう演出的文言)、姑とは、本音そのもので話していた證婚套餐。
なぜなら、わたしたちは、同志であり、同じ方向を見て協力し合い、努力していたから。
お互いの欠点をちくりちくり責めあったとしても、ものごとを進行するにあたって、改善するためならいざ知らず、ただただ自分の感性や好みでバトルしても、目標に到達する時刻が遅くなるだけ。
無駄。
俯瞰的に見て、本筋から逸れていることに対して時間やエネルギーを割くのはタイムパフォーマンスがよろしくない。
なので、立場は序列や年齢は違っても、ほぼ戦友のようなかんじだった。
先代の姑と、姑も、2人で力を合わせて同じ方を見て頑張ってきた。
とは言え、時代は進み、移り変わる。
また違う新しい価値観が生まれる。
が、底流にあるものは繋がっているように感じる。
時代遅れの本音を聞かされ続けていたわたしの娘たちは、ある意味かわいそうでもあるが、自立していく上では、よいスパイス、刺激になっていると思う。
反面教師でもよい。
次世代への何かしらの叩き台になっている。
次女は、姑(次女にとっては父方祖母)に、色々教わっていた。
わたしが知らないことも教育してもらえて、大変助かった。
自分が足りない面は、人の力を借りるというのは、とても良いことだと思う。
分かち合ったのはDNAだけでなく、それぞれが持っている力を集結させて繋いでいく。
その次女に、本質を見抜かれ、ぼそっと一言、言われるようになったuche呃人。
わたしも歳を取ったものだ。
すっかりもうお役目は終了したと感じた。
後は、ニコニコ前を向いて、静かにじわじわ後退していく時期だ。

Posted by jonesso at
16:27
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